誰かの下位互換の自分
年収300万もない社会のお荷物
大学院まで行かせてもらって、底辺生活の出来損ない
大学生の頃は毎日そんなことを考えて、しんどかった記憶がある。
実はこれってまだまだ新しい記憶で、
最近でも気持ちが落ちる時には同じ感覚に陥ることもある。
特に夜に苛まれるともう心がそわそわして、寝れないどころか
どんどん頭が冴えてしまって朝になる時もある
起業家になって3~4年経って
自分で稼ぐ力を身につけたと言える今でも、
あの時憧れて全てを解決できる力だと思ったものを身につけた今でも、
たまに心がやられる時がある。
どんなに頑張っても、
時にはあの頃と同じ心の動きに悩まされる。
無駄な努力なのか?
足りない経験なのか?
脳みそがしょぼいのか??
私は生物的にもう向上できない存在なのか?
私という存在の価値は進捗していないのか?
社会に対する有用性は高まっていないのか??
もっともっと世の中に感謝されるようにならないのか?
大谷翔平はあんななのに、俺はこんなものか??
生きる意味ないのか???
どんなにリスクを背負って、どんなに覚悟を決めて難しい仕事をやっても、
感動するほどに感謝されたり、
「あなたがいないともうダメだ」
みたいにいってくれる人が増えるわけではない
あまりにも、割りに合わなさすぎる。
精神をすり減らす行動の多さに対して、
報われる度合いが足りなさすぎる。
人生はあまりにも、割りに合わない。
これ以上生きる意味ってなんなんだろうか??
生きる意味ってあるんだろうか??
毎日生きてると、そんな風に惑わされる日もあるもんだ。
陥った心はどうやって元に戻るのか
前向きな気持ちに立ち返ることができるのか
そこに答えはあるのか
僕は最近は、不安に苛まれてもそれを一時的なものだと認識して、
なんとなくそれをいなせるようになってきた。
今はソワソワするけど、数日後にはその感覚もなくなるよと。
待つだけじゃなくて意識的に何をしているかというと
数日の間に、なんでもいいから人に触れるようにしてる。
会って話せればいいし、それが無理なら
本でもいいし、Youtubeでもいい。
直接でも間接でも、なんでもいいから人に触れる
誰かが宿るものに触れる。
そういう意識を研ぎ澄ませてみたりしています。
人間とは良く言ったもので、
人の間にある何かを介さないと我々は生きていけない。
一方で、自分と誰か、人の間の何かに触れるだけでも
なんとなく生を実感できたりする。
人の間で生きることが人生であり、生きるということの唯一の必要条件になっていると思う。
例えネットのような一見関係性の薄く見える空間でも
そこに人の間を認知して、生きている人がいる。
もし自分の価値を自分が疑うようなしんどいことになったら
まずは誰にでもどんな形でもいいから人に触れてみることだ
単に話をするだけでも誰かの暇つぶしになったり、
ふとした一言が助けになったりするもんだ
精神的に落ち込んでいる自分を見て、
それにより「私はまだマシか」と心が助かる人がいるかもしれない
なんでもいいから人に触れるのがいい
ラジオを聞けば、1人でも視聴者がいることはパーソナリティにとって嬉しいことだ
Youtubeもそうだブログなんかもそうだ
人の間に触れると、誰かになんらかの影響を与えているはずなんだ
この記事を見ている人もそうで、僕はここまでの意味不明な文章を読んでくれた誰かがいるなら大変嬉しい。
なんでもいい。
人に触れる。
コンビニの店員さんに「ありがとう」と返すでもいい
灼熱の砂漠でただ1人彷徨う人が1km先に人影を見ただけでも心は安心するだろう
フォロワー1人の人が健気にツイートしているのを見た人も何か想うことがあるだろう
生きる意味はあるのか?
明確に言語化できる何かがあるのかないのかなんてわからないけど
誰か触れる先を探している人にとって
あなたの存在そのものは意味があるのかもしれない
なくてもいいし、あるかないかなんてわからない
でも絶対にないとは断言できない。
存在とか生きることの意味なんて、それくらいハードル下げとけばいいじゃんね
言いたいことはそれなんだけど、文章はぐっちゃぐちゃになっちゃった
でも、いいやんね
なんでもええやん。
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